◆8月20日◆
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 翌朝。今私が向かっているのは、長崎駅ではありません。長崎駅がある方向とは逆に向かって歩いています[①]。時間帯的には、ちょうど通勤ラッシュ真っ只中というところのようで、行き交う車と人の数が非常に多いです。平日の朝の県庁所在地は、やはり都市としての活気に満ちています。

 長崎市は別名「坂のまち」。市内の街並みを見てみると、山の斜面に相当する部分にも住宅街を広げており、たしかに坂が多い街であることが分かります[②]。さすがにマンションなどは平地にしか立っていませんが、一軒家は、低いところから高いところまで、広い範囲に建てられています。県庁所在地、すなわち、規模の大きな都市でありながら、「土地の確保」には苦労する街であるということが分かります。

 で、私がやってきたのは「長崎港ターミナル」[③]。36ページで、ホテルについて記述している部分に、「ある事情により、価格以上に、立地を重視する必要がありました」と記しましたが、これは、翌日に長崎港に行くことが理由でした。あまりにも駅に近いホテルを選ぶと、翌日、港に行くときが大変です。しかし、港に近すぎると、今度はホテルへ行くときが大変です。長崎でのホテルは、駅と港の中間点くらいに位置しているものを探しました。

 所要の手続きを済ませて受け取ったものがこれ[④]。そうです、これから私が向かうのは、今何かと話題の端島、通称「軍艦島」。せっかく九州へ行くのだから、これは軍艦島に行かないわけにはいかないだろう、ということで、「完全に乗り鉄に偏重した旅」における唯一の観光要素として、軍艦島への来訪が組み込まれました。まあ、さすがに、旅の頭から尻まで列車列車列車というのは、ね。

 なお、軍艦島が世界遺産に登録されたのは7月5日ですが、私が軍艦島の上陸ツアーの予約を行ったのは、それよりも前の6月15日のことです。「世界遺産に登録されたから行こうと思った」という手の人間ではないということについて、お見知りおきを。

 「マルベージャ3」と書かれたクルーズ船に上陸します[⑤]。乗船するように指示されると、今日のクルーズに参加する人たちが、次々と船に乗り込んでいきます[⑥]。今日は8月20日、予約したのは6月15日ということで、2か月以上も前に予約を行ったわけですが、この8月20日には空きがあったものの、8月中のそれ以外の日は、2か月以上前でも満席多発で、軍艦島の人気ぶりがうかがえました。

 軍艦島への上陸にあたっては、風速5m以下、波高0.5m以下、視程が500mを超えることなど、いくつかの条件があります。国旗を見る限り、とりあえず風は穏やかそうに見えますが・・・、「外から見ただけで上陸できなかった」なんてことになったらどうしましょう[⑦]

 なお、今回は「やまさ海運」が主催する上陸ツアーに参加しました。この旅日記で軍艦島上陸ツアーについて書かれることは、全て「やまさ海運のツアーでのこと」であり、他の会社が主催するツアーの場合、ここに書いてあることとの相違点が多数出てくるであろうことをご承知おきください。























 ひとまず、クルーズ船は港を出ました[①]。風や波も心配事項ですが、何よりも、今日はまず天気が心配でした。というのも、昨日も、一昨日も、3日前も、そして4日前も、NHKのデータ放送で8月20日の長崎の天気を見てみると、傘マークがついていたんです。例え雨でも、各種条件を満たしていれば上陸は可能ですが、晴れなのに荒れている・雨だから荒れている、どちらの方がより可能性が高いか、と言えば・・・。

 しかし、天気予報とは異なり、今現在の長崎は曇りで、雲の隙間からは青空も見えています。まずは晴れて良かった。とにかくそう思いましたね。

 港から軍艦島までは45分ほどかかります。その間、運航会社の職員による各種の案内放送がなされ、軍艦島についての解説はもちろんのこと、今船から見えているもので何であるか、といったことも解説してくれます。三菱重工業長崎造船所・本工場[②]、均整の取れた斜張橋・女神大橋[③]など、沖合の方に出るまでは、何かと「見るべきもの」があります。

 海水を掻き分けてクルーズ船は進みます[④]。またしてもスリーダイヤを誇示した工場が見えてきましたが、これは三菱重工業長崎造船所・香焼工場です[⑤]。「三菱重工業長崎造船所」はあくまでも総称であり、実際には、本工場・香焼工場・幸町工場・諫早工場の4工場が稼働しています。

 鉄道の線路は「(基本的に)その会社が持つ車両だけが走る専用の道」ですが、海は、いわば「海上の道路」。普通の道路にあらゆる人が運転する車が走るように、海の上は、あらゆる会社の船舶が航行します。海上を航行していると、重油輸送船[⑥]など、様々な他の船舶と出会います。軍艦島付近では、他の会社によるクルーズ船も見かけましたしね。

 出航から20分ほど経ったころ、「軍艦島見学者」と書かれた紙が挿入された吊り下げ名札が配布されました[⑦]。ここでは配布がなされただけで、その具体的な目的や使い方などは一切案内されませんでした。とはいえ、わざわざ「乗船途中に」配ったからには、何か意味があるはず。

 さて、いよいよ軍艦島の姿が見えてきました[⑨]。軍艦島こと端島が「軍艦島」と呼ばれるようになったその理由は、文字通り、島の遠景が軍艦(土佐)のように見えたから。このように見てみると、なるほど、たしかに軍艦のように見えます。あくまでも偶然なのであって、別にそのように見えるように街づくりをしたわけではないでしょうが、左から低−高−低と移る高さは、まさに船首−操縦室−甲板のそれに近いです。

 島に近づくと、廃墟と化した街の様子がよく観察できます[⑩]。島の周囲を固めるコンクリートが海水の上に姿を見せる光景は、ここが人が住んでいた「島」であることを今一度認識させます[⑪]

 ロープによる緊縛が行われ、船が固定されました[⑫]。係員の「案内に従って、参加者は順次下船していきます[⑬]。ドルフィンと島の間を結ぶ「頼りなさそうな橋」を渡って[⑭]、私もついに軍艦島に上陸です。風速や波高などが所定の条件を満たしていて本当に良かったです。























 結果的に言って、現在はたしかに晴れています。しかし、やはり昨晩あたりは雨が降っていたのか、島には水たまりができていました[①]。なお、立地が立地なので、高潮や台風などのときは、島内にある建造物を破壊するほどの大波が来ていたとのこと。水たまりどころではありません。

 1974年4月20日、端島は無人島になりました。炭鉱関連の施設は、離島にあたって人為的に解体されましたが、住居などは、そのまま放棄されました。それから41年と4か月の歳月が経った今、「なすがまま」にされた島は、爽やかな夏空の下で、41年分の時の流れの全てを見せます[②]

 「3号棟」と呼ばれるこの建物は[③]、4階建ての鉄筋建築で、幹部用の社宅として使用されていました。「幹部用」というだけあり、ここでは個別の風呂が用意されていたようです(一般人の住居には風呂などなく、島の風呂は基本的に共同浴場)。これ1つを見るだけでも、人の出入りや手入れがないままに41年以上もの歳月が経過すると、島の鉄筋建築は果たしてどうなるのか、ということが分かります。

 この建物は何でしょうか[④]。7階建てにも及ぶ立派な鉄筋建築のこの建物は、70号・71号棟、すなわち、小学校・中学校でした。島は、単に石炭を採掘する場所ではなく、まさに「生活の場」でした。住居と採掘場のみならず、幼稚園、小中学校、映画館、パチンコ屋、警察署、商店、郵便局、神社、公民館などがあり、ここで本当に「普通の生活」ができました。

 人の出入りや手入れがなくなってしまえば、どんな建造物も朽ち果てて行ってしまいますが、端島の場合、海上にある島なので海風が酷い、台風や高潮のときに島を直撃するような波が次々と襲ってくるということもあってか、激しい壊れ方をしているものが多いように思います[⑤]。茶色の煉瓦造りが印象的なこの建物は[⑥]、もともとは採炭会社の総合事務所でしたが、風化と崩落を重ね、もはや原形をとどめていません。

 何のためのものであったのか想像もつかないこの建築物は[⑦]、第二堅坑(たてこう)へ行くための階段と通路の残骸です。堅坑とは、鉱員の昇降や採掘された石炭の荷揚げなどにために掘られた垂直の穴のことで、鉱員は、堅坑から分速480mのケージ(いわば鉄骨だけで組んだ箱)に乗り、坑道へ向かっていたとのことです。窓などは当然残っておらず、階段の部分も、まさに段が繰り返している部分だけが残っており、崩落寸前です。

 「今や軍艦島は朽ち果てるのを待つだけの島か」といえば、そんなことはありません。この写真の左上を見てみると、灯台が立っていることがお分かりになるかと思います[⑧]。現在でも、端島は灯台を建てるための基礎としての役割を担っており、立派に仕事をしています。なお、端島に人が住んでいた当時は、建物の灯りが夜でも煌々と輝いていたため、島自体が灯台の役割を果たしていたそうで・・・。

 島の拡張に伴って造られた護岸から、赤い土が見えています[⑨]。この赤い土は、石灰と赤土を混ぜた「天川」と呼ばれるもので、石と石の接着剤の役割を果たしていました。手が届くところに天川が露出している個所では、実際に手で触れてみることもできます。

 参加者たちは、島では自由行動ではありません。3か所に配置されたガイドの話を順番に聞いていき[⑪]、全ての話を聞き終わったら船に戻る、という流れでの行動となります。先ほど配布された「軍艦島見学者」の紙が挿入された名札は、紙の色(3色ある?)によってグループ分けをするためのものでした。この色のグループは初めにここのガイドの話を聞き、そして次のガイドへ行くように、とすることで、円滑な見学を実現します。

 一見、ただの空き地に見えますが、ここは25mプールでした[⑫]。プールといっても、その水は海水であったようですが(晩年1〜2年は水道水)。このプールが完成する1年前に海底送水管が敷設され、真水が送られてくるようになり(それまでは海水を蒸留、後に給水船による運搬)、水道水を自由に使えるようになりましたが、それでも、島においては、やはり真水は貴重なものだったということでしょうか。

 石炭の需要があり、その採掘が盛んだったころは、炭鉱マンというのは「儲かる職業」だったようで、島の人々は、実は結構豊かな暮らしをしていたようです。テレビは、全国普及率がまだ20%程度であったというころに、島では、既に9割以上の人たちが保有していたと言われています。


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