◆本州の端っこの小さな駅◆
所要時間5分、途中停車駅は僅かに1つ。単行運転の123系から降りてきた乗客は、両手で数えられるほどで、ホームに降り立つと、皆散り散りになった。ここは小野田線本山支線の終点駅、長門本山駅である。
支線に乗って終着駅に来るというのは今回が3度目。最初は2010年3月の東北本線の利府支線への乗車で、2度目はこの長門本山駅を訪れた時の旅での山陰本線の仙崎支線である。ただ、同じ支線の終着駅でありながら、利府支線の利府駅とも仙崎支線の仙崎駅とも何だか違う気がする。
それもそうか、利府駅は支線と言えど天下の東北本線の支線の終着駅で、元々は本線の駅だった。仙崎駅は、仙崎が金子みすゞの生誕の地だったということもあっては、駅舎の内部は金子みすゞに染め上げられていた。
さて長門本山駅は、と言えば、利府駅のように自動改札機があったり多くの利用があったりするわけでもなければ、仙崎駅のように観光資源に恵まれた場所にあるわけでもない。駅は本当に質素で、まさに「鉄道の駅」という感じがする。
駅の外へ歩みを進める途中で、車止めが目に止まった。ここは小さな小さな駅だが、線路が途切れる駅の1つだ。「線路は続くよどこまでも」という言葉は当然嘘だったわけだが、ここから始まりずっと繋がり続ける線路で札幌にでも鹿児島にでもどこにでも行けると思うと、たしかに線路は無限に続いているような気がしてならない。
駅の方を振り返ってみる。1面1線のホームに小さな待合室があるだけの小ぢんまりとした駅に、123系が佇んでいる。今でこそ123系だが、2003年までは旧型国電が本山支線の専用車として活躍し、ここ長門本山駅に姿を現していた。
最後まで本山支線で走っていたクモハ42001は、戦争もJRの民営化も平成への移り変わりも見事に潜り抜けて、製造から実に70年間もの間走り続けた。
そして今は郵便・荷物車を改造した123系が、本山支線に限らず、小野田線全線で活躍している。クモハ42001は当然生まれながらにして旅客車だが、123系は元々は郵便・荷物車であり、余剰となったそれらを改造して旅客車とした車両が123系である。
深い茶色をした旧型国電、郵便・荷物車改造という異色の車両である123系。どちらも魅力があり、味わい深い車両である。
小さく小ぢんまりとしていて、そうでありながら何とも言えない独特の雰囲気がある長門本山駅には、そういった味わい深い車両がよく似合う。
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◆周りに溶け込む長門本山駅◆
駅の敷地から出ると、すぐそこには道路が走っている。駅の敷地、という言い方をしたが、もちろんこれにはそれなりの理由がある。
それは、長門本山駅は周りを柵などで囲まれたりしていないため、どこからどこまでが駅なのかが正確には分からないからである。だから道路からそのまま線路に入ることはもちろん、123系を目の前にして立つこともできる。
そのように周りと一切仕切られていないがため、長門本山駅は異様なまでに周囲に溶け込んでいる。それは、鉄道の駅がそこにあるということを遠目には感じさせないほどである。
「なんだか分からないが、電車が1両そこにポツンといる・・・。」そう形容しても良いかもしれない。
そして123系という車両は、そんな周りに溶け込んでいる長門本山駅にとても似合う、この場所にぴったりな車両なのである。
◆石炭と長門本山◆
駅前には道路が左右方向に走っているが、車通りはさほど多くない。それに、道を歩いている人もほとんどいない。実に静かである。
ここ長門本山は、かつては石炭の産出が盛んで、本山支線の線路ももう少し先、石炭を積み込むための桟橋まで伸びていたという。本山支線が造られたのも、そもそも石炭の産出のためだった。
当然、ここには仕事を求めて多くの人が移り住んできた。それに従って、長門本山は1つの街として発展し、人の行き来も結構なものになっていた。例えば1956年末の時刻表によれば、本山支線の下り最終列車は今より5時間40分ほど遅い、雀田23時57分発長門本山0時02分着の列車だったという。
炭鉱は1963年に閉鎖されたが、それが本山支線を含む長門本山という場所一帯に大きな影響を与えたことは容易に想像できる。下り最終列車も、今は雀田18時12分発長門本山18時17分着の列車である。
ただ、雀田方面を見てみれば大きなマンションもあるし、駅の近くには新しそうな家もある。もちろん、人が住んでいるのかどうか怪しい家も、廃屋となっている家もないわけではないのだが、それでもまだ長門本山という場所が完全に廃れ切ったわけではないということなのだから、憂えることはない。
ぼうぼうと生える草村の向こうには、周防灘が広がっていた。大きく広がるこの海だけがかつての栄光を知っているかもしれない。
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