◆停車のための”儀式”◆
列車がトンネルを抜けた。トンネルを抜けると、右手にはこれから下車する坪尻駅が見える。なるほど噂通りに秘境駅というたたずまいだな、と思う。
琴平から乗車してきた1000形の普通列車は間もなく坪尻駅に到着しようというわけだが、列車は坪尻駅を一旦通り過ぎる。何も知らなければ「どういうことなんだろう」と思ってしまうが、そう、ここ坪尻駅は四国に2つあるスイッチバック駅のうちの1つである。列車は坪尻駅に停車するために、折り返し用の引き込み線へ入るのだ。
引き込み線に入って列車が停止すると、運転士は客室内を通って、これまでとは反対側(琴平方)の運転室へと向かう。しばらく待つと、列車は坪尻駅へ向けて逆走を開始した。この”儀式”を経て、列車は9:50、ようやく坪尻駅に到着する。
◆今までに見たこともないような駅◆
9:50に列車は坪尻駅に到着した。財布からバースデイきっぷを抜き出し、それを運転士に見せて坪尻駅に降り立つ。4月になり、寒い日もめっきり減った。今日もたしかに暖かく、さらに空は雲1つない快晴で、本当に清々しい気分になる。
坪尻で下車したのは私1人だった。まぁ当然といえば当然か、とも思う。坪尻駅は山の中にあり、駅前には人家はもちろん、道路もない。周囲を見回してみても、あるのはそびえる山々だけで、他には何もない。なぜこんなところに駅があるのか?という疑問も自然と湧いてくる。もっとも、それこそが、ここ坪尻駅が「秘境駅」と呼ばれる所以であるのだが。
今まで、数々の駅に降りてきたが、このような駅は今までに1度も見たことがない。まだ駅の様子を見たり、周辺を歩いたりもしていないが、坪尻駅を取り巻いているものだけでも、私を驚かせるには十分であった。
本当に凄いという一言しか出てこない駅だなぁ、と思っていると、2分の停車時間が経過して、普通列車は坪尻駅を発車していった。今度は進行方向を変えることなく、そのまま阿波池田方へと走っていく。
そうして、坪尻駅から1000形のアイドリング音が消えた。人がなければ物もないのだが、とうとう音もなくなってしまった。しかも、駅の前に「マムシ注意」という看板も見えるものだから、ちょっと不安にもなってきてしまう。
列車が発車して1人坪尻駅に残されたところで、尿意を催していたので、とりあえず便所へ向かった。ひょっとしたら便所なんかないかも、と思ったが、幸いにも便所は設置されていた。古めかしい木製の扉に、白く新しい「手洗所」というプレートが何とも不釣り合いだ。
扉を開けて便所に入ると、そこはかなり汚れていた。清掃も一切行われていないのだろう。こうも山の中に駅があり、駅にたどり着くことが困難で、また利用者もほとんどいないという状況では、人の手が行き届かないのも仕方がない。
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◆山の中にぽつんとある駅◆
用を足して、再びホームに戻ってきた。改めて駅周辺を見回してみるが、先ほども書いたように、山に囲まれ、本当に何もない。自然に恵まれているとか、大自然の中にある駅とか、聞こえが良い言い方はいくらでもあるが、これはあまりにも自然に恵まれすぎている。
山の上の方を見てみると、車が走っているところが見えた。山の上には道路があって、その道路は坪尻駅の最寄りの道路ということになるのだろう。だが、その道路はかなり遠くにあるように見える。
そろそろ駅の外に出ようと駅舎内へ向かうと、頭上に手書きで「おつかれさまでした」と書かれた看板があった。どこからどれくらいの距離と時間で坪尻駅に来たかは人それぞれだが、特に遠来の人にとっては、心温まるものだろう。たかだが10個の文字が書かれているだけに過ぎないのだが、妙に人のぬくもりや温かさを感じるような気がしてならない。
◆駅ノートと本がある駅舎内◆
駅舎内に入る。駅舎の中には木製のベンチが2つある。そして片方のベンチの上にはかごがあり、その中には駅ノートが入っている。1冊を手にとって中を見てみると、多くの書き込みがある。それだけ鉄道ファンの来訪はあるということなのだろうが、一般の人の利用はやはりほとんどなさそうな気がする。
他の人の書き込みを見ていると、どこからどのような来たのかが書いてあったりして、その人それぞれの旅の様子が思い浮かばれる。旅の始まりの駅は全員違っても、みんな坪尻駅を目的地としてここで降りた。思わず、何とも言えぬ一体感のようなものを感じた。私も坪尻駅を訪れた記念に、駅ノートに書き込みをしてみた。これで坪尻駅に訪れた鉄道ファンの一員になれただろうか。
ベンチの脇には本棚があって、その上には発車時刻表がある。本棚の下段を見てみると、「鉄子の旅」などの本が置いてあった。列車を待ち合わせる時間に読んでもらおうということで、地元の人か、それかどこからかやってきた鉄道ファンが置いていったのだろう。カバーにはしわがあり、それだけ多くの人に読まれたのだろうということがうかがえた。
次に、本棚の上にある発車時刻表を目をやる。当然、列車の本数は少ないが、坪尻駅は普通列車でも通過する列車があるため、普通の時刻表に掲載されている普通列車の本数よりも本数が少ない。
1日に発着する列車の数は、下りが8本で上りは5本。下りの方が上りよりも多くなっている。合計で13本の列車が発着するわけだが、1日の平均乗車人員は2人だ。少なくとも11本の列車では坪尻からの乗車はないということになる。また、乗り降りが全くない列車も当然あるだろう。だが、残念ながらそれが現状なのである。
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