Page:21

※各画像はクリックすると拡大します。










 岩手船越駅にやってきました。この駅は、震災当時、駅のすぐ裏手にまで津波が上ってきたものの、間一髪でホームや駅舎にまでは到達しなかったという駅のようです。それゆえ、駅舎は綺麗なまま今も残っていますが、入り口に打ち付けられた板により、駅舎は閉鎖されています[①]

 板に何かが掲示されていたので、見てみました[②]。それは、定期券や回数券を持つ旅客向けの、路線バスへの振り替え乗車の案内でした。釜石〜宮古間については、JR公式の代行バスは出ておらず、地元の路線バスのみが運転されています。そのため、普通の乗車券や青春18きっぷなどでの振り替え乗車はできませんが、定期券や回数券を持つ人へは、配慮がなされているようです。

 シャッターが下りたままの山田町観光情報センター[③]。震災によって駅が営業休止に至ったことに伴っての閉鎖かとも思いましたが、見た目の古びた雰囲気などから察するに、それ以前のもっと早い時期に閉鎖されたのではないかと推測します。まあ、より主要な駅である陸中山田ならばともかく、岩手船越にこのような観光情報センターがあるというのも、ちょっと不思議ではあるのですが。

 ホームや線路は綺麗なまま[④]。しかし、何らかの危険性があるのか、ホームへの入り口は閉じられていたため、外から身を乗り出す程度にしての見学です。古めかしい字体による縦長の駅名標、へこみや折れのひとつもないほどに綺麗な駅名標など、状態は本当に上々[⑤]。津波の被害を受けて流されてしまった駅との「格差」のようなものを感じてしまいます。

 「本州最東端の駅」と書かれた看板が立っていました[⑥]。本州の太平洋側に設置された数ある駅の中でも、一番太平洋側に突き出していたのは、岩手船越駅でした。現在の本州最東端の駅については、それについて記述している文献やサイトを見つけることができませんでしたが、Google Earthから推測すると、三陸鉄道北リアス線の田老駅ではないかと思われます。














 岩手船越駅のほど近くにある、道の駅やまだにやってきました[①]。今回、釜石〜宮古間をレンタカーで移動するにあたっては、各駅から各駅への移動時間などを計算し、”時刻表”のようなもの作成しましたが、駅前で写真を撮ったり、レンタカーの貸し出し手続きが長引いてしまったりしたため、釜石駅を出発するのが大幅に遅れてしまいました。

 ただし、このような事態を想定し、私は、道の駅やまだで、40分の”停車時間”を設けていました(12:22着13:02発)。道の駅やまだでは、昼食と休憩を兼ねた長めの停車時間を設け、いざというときには、その時間を、遅延分の調整・吸収のために使用する、という段取りです。

 駐車場には、周辺の復興工事に従事していると思われるトラックやダンプカー、ビジネスバンの姿が目立ちました[②] [③]。そして実際に車から降りてみても、ささやかな休憩時間で寛ぐ作業員たちの姿があちらこちらに。昼食はここで食べることにしていて、食堂にも足を運んでみましたが、なかなかの盛況ぶりだったので、リュックに忍ばせてあったパンと、ここで買ったおにぎりを頬張って済ませました。

 建物の窓に、岩手県北バスの路線図が掲出されていました[④]。 もう何度か「釜石〜宮古間は、JR公式の代行バスはなく、路線バスのみがある」ということをお伝えしていますが、この路線図を見ると分かるように、ここに「釜石駅」は書かれていません。実は、釜石〜宮古間は、1本の路線バスが直通では結んでおらず、釜石〜道の駅やまだ(岩手県交通)・道の駅やまだ〜宮古(岩手県北バス)と乗り継ぐ必要があります。

 三陸鉄道南リアス線のランチ・スイーツ列車の広告[⑤]。東日本大震災では、南北両方のリアス線が大きな被害を受けましたが、どちらも復活を果たしました。つくづく、黒字企業であるJR東日本の被災路線が鉄道での復旧を果たせなかった一方、赤字企業の三陸鉄道の被災路線が鉄道で復旧したというのは、皮肉な話であると思ってしまいます。
















 続いて織笠駅にやってきました。太平洋側を縦断する主要な道路、国道45号線から外れた場所にあり[①]、車通りなどは少なく、駅周辺はひっそりとしていました。もっとも、被災前は、駅の近くには住宅地があり、そう人気(ひとけ)のないところというわけでもなかったようですが・・・。

 織笠駅は、海に近いところにあったということもあり、津波の被害を大きく被りました。その結果、現在は、駅の入り口とホームであったらしい残骸が残っているのみです[②]。柵を越えない範囲で、階段の目いっぱい上まで行ってみましたが、アスファルトで造られていたはずのプラットホームでさえ、抉られ、流された様子が見えました[③](手前のL字型のアスファルトは、階段を上った先の、ホームとの接続部)。

 階段の上から駅前を見ます[④]。タイルが敷かれた”枠”が見えますが、その上には、プレハブの簡易な駅舎が建っていました。もちろん、本体は津波には抗えず、流されてしまいましたが、土台は、その姿をはっきりと留めています。

 鵜住居、大槌、陸中山田など、津波の被害を大きく受けた駅は、その周辺での工事が盛んであり、車を安全に停められそうな場所が見当たりませんでしたが、織笠に関しては、主要な道路から離れたところにあり、特に工事は行われていませんでした。そのため、元々は草地であった空き地に、車を安全に停車させることができました[⑤]。一応、今回の駅訪問に当たっては、路上駐車をせずに済むかどうかを気にかけてあります。

 駅自体は大きく壊れてしまった織笠ですが、釜石方面に目を向けると、まだ線路が残っていました[⑥]。線路は大きく錆びつき、その下に敷かれた枕木も、激しく腐食してしまっているでしょうか。一方、宮古方面は、線路は流失したものの、緑色の橋梁が残存していました[⑦]


                  10  11  12  13  14  15  16  17  18  19  20  21  22  23  24  25
26  27  28  29  30  31  32  33  34  35  36  37  38  39  40  41  42  43  44  45  46


DISCOVER どこかのトップへ

66.7‰のトップへ