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 織笠の次の陸中山田も訪問する予定でしたが、車を駐車できそうなところが見当たらず、結局撤退。事前の調べにより、「仮設駐車場」なるものがあるということを突き止めていましたが、その駐車場は、仮設商店街を訪れる人などのために用意されたものではなく、災害公営住宅の住民用のものであることが分かりました。それならそうとはっきり書いてもらえれば・・・。

 昨日の朝、大船渡のホテルで天気予報を見たとき、3月24日(昨日)の夜は、釜石の方では雪が降る、ということになっていました。結局、雪は降らなかった(レンタカーを借りる際に店員に尋ねた)らしく、雪道を走ることも、凍結道を走ることもありませんでしたが、ここに至って、何と雪が降ってきてしまいました[①]。まあ、雪というよりはみぞれですが、まさかの雪が降る中の運転です。

 陸中山田は通過として豊間根にやってきました[②]。陸中山田〜豊間根間は、鉄道時代は11.1kmの駅間距離があり、車で走ってみても、たしかに時間がかかりました。アップダウンの激しい峠道も聳えていましたが、2500ccのエンジンの力は、伊達ではありませんでした。

 他の駅と同様に、駅舎には板が打ち付けられ、閉鎖されています[④]。ホームへの立ち入りができる駅はあっても、駅舎への立ち入りができるようになっている駅がひとつたりともないのは、やはり、浮浪者の住み付きや荒くれ者の溜まり場となる恐れがあるから、ということなのでしょうか。営業休止状態になると、列車の往来もなくなり、管理がほとんど行き届かなくなりますからね・・・。

 海から大きく離れたところにある豊間根駅は、津波の被害がゼロでした。駅のみならず、その周辺にある住居や商店も、全て健在です[⑤]。それどころか、駅の付近では、新築住宅の建設が進められている最中でした。やわらかな日差しを受ける椅子[⑦]、無人でひっそりとしながらも生気を放っているホームは[⑧] [⑨]、まさに「ローカル線の小駅の昼下がり」といった雰囲気で、もう少し待っていれば列車が来そうな予感さえします。

 元々は2面2線の駅でしたが、後に1面1線化。しかし、使われなくなった側のホームはまだ残存しており、JR様式のものに取り換えられることのなかった駅名標(国鉄様式)も立ち続けています[⑩]。では、そろそろ「水も滴るいい男(向けのセダン)」で、次の駅へ向かいましょうか[⑫]





















 次の駅、津軽石へ向かう途中、山田線の線路と平行する区間がありましたが、その線路上に保守用車らしきものが停車し、作業員が何かをしているという光景が見られました[①]。釜石〜鵜住居間と豊間根〜宮古間に関しては、2016年のいわて国体に間に合うよう、残りの区間に先駆けて復旧させる計画であるため、既に復旧作業を急速に進めているのかもしれません。

 そして津軽石駅にやってきました[②]。他の駅と同様に、駅舎は閉鎖されていますが、津軽石駅では、駅舎に貼り付けられていた駅名看板までも撤去したようでした。駅前の道では、工事関係者の車が列をなして停車していました[③]

 「タクシーのりば」と書かれた案内板が今も立ち続けていますが[④]、表面のクリアパーツに亀裂のようなものが入っています。津波で押し寄せてきた物が衝突したのでしょうか。駅周辺も駅構内も比較的綺麗であったため、この辺りは津波が来なかったのかな、と思いましたが、その考えは実に浅はかであり、「東日本大震災 津波浸水深ここまで▼」と書かれたプレートが駅舎に貼られていました[⑤]

 駅構内は、ホームも線路も残っていて、一見、津波が押し寄せてこなかったようにも見えます[⑧]。しかし、実際には、津波はやってきて、駅の近くにキハ100系が脱線・打ち上げられるくらいでした。ただ、今の様子を見る限り、そのようなことがあったとは想像もつきません。津波が来た場合でも、物を押し流さず、その場所を浸したくらいであれば、水が引いて乾くと、ほぼ元通りになるということなのでしょうか。

 釜石方面を見ると、大量のレールが用意され、重機や作業員の姿がありました[⑨]。三陸鉄道線としての復活を目指しての工事が、現在進行形で進んでいるようです。いわて国体は2016年10月に開催されますから、本当にそれまでに一部区間が復旧するというのであれば、今のうちからどんどん作業を進めねばなりません。早期復旧区間においては、線路や駅の残存率が高いのは、幸いなことと言えます。

 しかし、線路の復旧を進めることも大切ですが、駅舎の復旧も疎かにはできません[⑩] [⑪]。例えば、この津軽石駅の場合、津波がやってきたことにより、駅舎の中は泥だらけになりました。さすがに掃除してから閉鎖したのだろうとは思いますが、すぐに営業に供せられる状態であるとも思えません。駅舎内のストーブや椅子、掲示物などの整備。これらも大切なことです。























 宮古のひとつ前の駅、磯鶏にやってきました[③]。ホームは駅舎に接しないで設置されています。窓も入り口も全て塞がれ、現在は、何の役にも立たないただの箱状態です[④]。震災当日は、津波の浸水はあったものの、物理的な損傷は軽微だったようです[⑤]

 ひと口に津波が来たと言っても、その高さは場所によって様々。足首程度の高さのところもあれば、建物すらも飲み込むような高さだったところもあります。被災地においては、そこにやってきた津波の高さを示す標示が、至るところで見られます。磯鶏駅の駅舎もそのひとつで、どの程度の高さであったのか検証してみたところ、身長約178cmの私がすぐそばに立った結果、線は肩と脇の間くらいに来ました[⑥]

 駅のすぐ脇に置かれていた、重機と砂利[⑦]。しかし、砂利と言っても、未舗装の道路などで見られるような砂利には見えません。やはり、これは線路のバラスト用の砂利が積み上げられている光景なのでしょうか? 現在、山田線の釜石〜宮古間では、復旧工事が進められているようですが、必要となるバラストは、ここを拠点として、トラックによって持っていくということなのかもしれません(当然ホッパ車なんて使えない)。

 磯鶏駅のホームに入ってみます[⑨] [⑩]。ホームの柵はまっすぐ立っているため、一見、何事もなかったかのように見えるかもしれませんが、その右横にある住居の柵は、折れ曲がったままになっています。これは津波によるものでしょうか。

 ホームに設置されている椅子は、プラスチック製でありながら、原形をしっかり留めています[⑪]。しかし、座面や背もたれは泥だらけで、非常に汚れています。雨風を受けてきたからこうなったのか、あるいは津波に浸った後、一切の手入れがされていないのか。もし後者であるとするならば、東日本大震災当日の様子を今に伝える生き証人であるとも言えそうです。

 磯鶏駅のすぐ近くにあるSL公園には、9600形蒸気機関車が保存されています[⑫]。その上には屋根が設けられ、また、保存会の手入れがよく行き届いているとのことですから、この状態の良さも納得です。このようなものがあるのを見ると、「復興支援として、この9625を復活させ、復旧を果たした釜石〜宮古間で走らせよう」といった声が聞こえてきそうな気もします。本当にそんな噂があったら面白そうですが。


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