Page:42

※各画像はクリックすると拡大します。

















 車止めの先に、蒸気機関車が走っていた時代の給水塔が残されています[①]。金属部分は錆びつき、蔓のようなものが巻き付いていますが、原形はしっかりと留めています。駅舎の改築や線路の整理が行われた中でも、給水塔はそのまま存置されました。「機関車の 給水あとや ススキ原」とは、名松線開通70周年記念の俳句大会で詠まれた句です[③]

 給水塔の横辺りに、これまた何かの残骸のようなものがありました[④]。以前は、給水塔の近くに小屋があり、それの基盤かとも思いましたが、どうやらそういうわけではないようです。そして、残骸を伝うパイプの下にあったのは・・・、は、湯たんぽ、でしょうか?[⑤] 元々の色がさっぱり分からなくなるほどに錆びつき、腐食で穴まで開いてしまっていますが、いったい、いつごろからこうして放置されているのでしょうか。

 ホームは、2両分程度の長さだけを確保し、残りの部分は、柵を建てて立ち入れないようにしてあります[⑥]。この写真ではちょっと分かりにくいですが、柵より手前(入れない部分)は、ホームの幅が狭くなっていて、仮に列車がやってきたとしても、ホームが車両まで届きません。

 車止めは、レールを曲げて組み立てただけの簡易なものです[⑦]。全国にJRの駅は4532個ありますが、その中でも、線路の終わり、あるいは線路の始まりとなる駅は、非常に限られています。つい先ほど、長年に渡って続けてきた”旅”が、一応の終わりを見ました。しかし、こうして伸びゆく線路を見ていると、感慨に浸っている余裕はないのだなと思わされます[⑧]。新しい次の旅は、またここから始まります。

 長い間、列車が行き来することがなかった踏切も、ついに列車の往来が再開しました[⑨]。「ふみきり注意 左右確認」という表示も、随分と新しくて綺麗に見えますが、名松線の復旧に際して、整備し直したのでしょうか。一方、「踏切あり」の警戒標識については、もうずっと同じものが使われ続けているようです[⑩]。蒸気機関車が来なくなって久しいですが、今でもSLデザインのものが立っています。色あせて穴だらけ・・・。

 復旧工事が完了した後、2月16日からは、実際の車両を用いての試運転が開始されたようです。家城〜伊勢奥津間にある踏切には、「2月16日から列車が通ります」という幟が立てられていました[⑪]。運休中は、踏切での左右確認の義務はなくなっていたのではないかと思いますが、この2月16日以降は、列車が来る可能性があるということで、左右確認の義務が復活しました(たぶん)。

 「踏切あり」の警戒標識は、未だに蒸気機関車でしたが、一方、イラスト付きの注意看板はというと・・・[⑫]。片開き2扉、橙色の帯。キハ11形のようでキハ11形ではない、全く新しい車両です。ただ、前面に貫通扉を描けば、それなりにキハ11形っぽくなれるかもしれません[⑬]
















 17:15発の松阪行きで帰ります[①]。盲腸線の列車というのは、往々にして到着直後に折り返していってしまうものですが、16:35に到着した下り列車の折り返しが17:15発と、40分の時間が設けられています。単に乗り潰しのためだけにやってきた人間にとっては、「到着後即帰還」となることが回避され、しばらく駅でのんびりするための時間があることは、非常にありがたいことです。

 いま来たばかりのところを、列車はそのまま戻っていきます[③]。その中でも、少しでも飽きを感じないようにするために、先ほどは家城〜伊勢奥津間で進行方向左側に陣取っていたところを、帰りも左側に陣取ることで、行きとは反対側の車窓を見るようにしておきます。最高速度65km/hという走りは、時にじれったくも感じられますが、時に心地良くも感じられます。

 まずは比津に停車します[④]。2016年3月のダイヤ改正の時点で、比津駅を発着する列車は、1日に7.5往復ありますが、それに対して、1日平均の乗車人員(2014)は4人なので、乗車や降車が発生しないのは、何ら珍しいことではないと言えます。実際、この列車では、乗降は全くありませんでした。もっとも、名松線においては、こうした「利用が極端に少ない駅」という存在は、比津に限ったものではありませんが。

 山際を通っていく区間では、このような落石防止柵が設置されています[⑤]。家城〜伊勢奥津間が台風によって不通になったときは、土砂崩れもその要因のひとつでしたが、山の表面全体が流れてくるようなときは、こんな柵は何の役にも立ちませんね。あくまでも落石対策用です。

 伊勢奥津へ行くときの列車でもそうでしたが、沿線では、走行中の名松線の列車を撮影する人がしばしば見られました[⑥]。では、彼らはいかにも「撮り鉄」なのかというと、そのようなことはなく、多くは、携帯電話かコンパクトデジカメを使用しているような、”ライトな”人たちでした。彼らが地元の人々であるならば、名松線の復活がいかに待ち望まれていたのかがよく分かります。帰ってきた「日常の風景」のありがたみ。

 17:49に家城に到着[⑦]。下り列車との行き違いを行うため、ここでは13分間停車します。そろそろ暗くなってきました。



















 家城駅の上下のホームは、松阪寄りにある構内踏切によって結ばれています。しかし、警報機や遮断機などの類はないため、まもなく下り列車がやってくるというとき(下り列車は構内踏切を跨いでいく)は、駅員がかけるチェーンにより、通行が禁止されます[②]

 交換相手の伊勢奥津行きがやってきました[③]。キハ11形の2両編成です[④]。この下り列車は、終点の伊勢奥津到着後、18:58発の松阪行きとして折り返しますが、同列車は、伊勢奥津発の上り最終列車であるため、日帰りでの乗り潰しをしたければ、遅くともこの下り列車に乗っていくことが必要となります。一応、伊勢奥津20:25着という下り列車はありますが、そこからの戻りはありません。

 下り列車の到着後、名松線における目玉が登場します。それは、タブレット交換です(正しくはタブレットではなく通票らしいが)。松阪〜家城間で使用するタブレットを下り列車の運転士から受け取った駅員は[⑤]、それを上り列車の運転士に引き渡します[⑥]。タブレットは、いわゆる「通行手形」にあたり、これを持っている列車だけが、その区間の通行を許可されます。家城駅は、こうしたタブレット交換が見られる、数少ない駅です。

 家城に停車している間にも、辺りはまた少し暗くなりました[⑦]。今日発の上りムーンライトながら号に乗って帰りますが、それに乗るまでの間は、いわば「消化試合」のようなものです。もうこれ以上は乗るべき路線もありませんからね。あとはフリーきっぷの元を少しでも取りに行くだけです。

 家城から先は、時間が流れるにつれて夜が近くなります。今は区別がついている山と空も、やがて夜が世界を支配するようになれば、その境目は闇の中に消えていきます[⑧]。春になるにつれ、日照時間はたしかに長くなりましたが、18時過ぎくらいになると、車窓は厳しくなってきます。

 終点の松阪に到着するときには、あたりはすっかり暗くなっていました[⑩]。約3時間30分をかけて、松阪〜伊勢奥津間を往復してきました。


                  10  11  12  13  14  15  16  17  18  19  20  21  22  23  24  25
26  27  28  29  30  31  32  33  34  35  36  37  38  39  40  41  42  43  44  45  46


DISCOVER どこかのトップへ

66.7‰のトップへ