北海道新幹線の乗車を完了した時点で、残る路線は太多線と名松線のみになり、どちらへの乗車をもって全線乗車を達成するのか、という問題が発生しました。しかし、私は、迷うことなく名松線を選択しました。
それはひとえに、名松線が「線路が途切れる盲腸線だから」というためです[①]。駅名標の隣の駅は、「ひつ」のみ。この先の駅はありません。名松線という路線名は、「”名”張と”松”阪を結ぶ路線」であることに由来していますが、ここから先の名張方面への建設は、結局果たされずに終わってしまいました。それゆえ、線路はここで途切れます[②]。車止めをもって、スパッ!と途切れてしまいます。
そもそも、私がJR線の全線乗車を標榜しようと思ったのは、全国に約20000kmも張り巡らされているという、その充実した路線網(総延長)にありました。この線路を辿っていけば、北海道へも、四国へも、九州へも、沖縄以外のどこへでも行ける。そんな壮大さに、私は魅了されました。約20000kmの路線網の、その全てを知り尽くしてみたい。その全てを辿ってみたい。これこそが、JR線の全線乗車を目指すようになった理由でした。
今、車止めをもって途切れている線路を見ると、「ここを起点として始まる線路を辿れば、日本のどこへでも行ける」というように思います。それは、私の”初心”を呼び起こします。両端で別の路線に接続し、線路が途切れるわけではない太多線では、この感覚は得られません。「線路が途切れる路線(盲腸線)こそが、この長旅の完結にふさわしい」。こうして、私は名松線を最後の路線に選びました。
復旧したてほやほやのためか、線路はまだ錆びつき気味です[③]。元々本数が少ないですから、幹線路線のように、綺麗に磨き上げられた状態にはならないかもしれませんが、もう少し輝きが欲しいですね。一応、昨日の運転再開よりも前から、訓練用の試運転列車を何度か走らせていますが、線路にツヤのある輝きをもたらすまでには至りませんでした。
伊勢奥津発の列車は、主に2時間に1本の割合で運転され、17時台と18時台については、2時間台連続で発車していきます[⑥]。本数はたしかに少ないですが、2時間に1本という間隔は、朝から夕方まで、ほぼ終日守られ、あまりにも不均等になるということはありません。そういう意味では、本数は少ないながらも、利用しやすいダイヤを組むような配慮を感じ取れます。
現在の駅舎は、2005年2月に完成しました[⑦]。地域住民センターなどを兼ねているため、平屋建てではありますが、横方向に広くなっています。この6年半、駅舎は、ある意味「巨大なバス停」として機能し続けてきましたが、ついに鉄道の駅舎としての本分を取り戻しました。2005年2月完成・2009年10月不通・2016年3月復旧という流れを考えると、現在のところ、「巨大なバス停」であった期間の方が長いということになります。
「みんなで守ろう名松線」[⑧]。JR東海は、家城以遠を廃線にするつもりでしたが、「地元自治体が復旧に協力すること」を条件提示し、それに応じれば復旧をするということになりました。そこで、三重県と津市は、両者は、山と川の継続的な保守を約束し、復旧に際して治山・治水工事を行いました。復旧しろ・廃線するなと声高に叫ぶだけでなく、自ら鉄路の維持に協力する。これこそが、未来のローカル線に求められる事項です。
駅周辺に小規模な町が広がり、周囲は山に囲まれている[⑨] [⑩]。いかにもローカル線の駅というこの雰囲気は、”雰囲気としては”、私はとても好きです。ただ、どんなにそう思ったところで、実際に住みたいとは思えないのは、やむを得ないところです。だからこそ、普段は縁のない、このような地域を訪れることというのは、旅行のひとつの醍醐味となっていきます。
駅のすぐ近くにあるNPO法人の事務所では、レンタサイクルを無料で貸し出しているようです[⑪]。私が伊勢奥津駅にいる間にも、どこからか自転車を漕ぎながら帰ってきた人たちがいました。到着した便の折り返しで帰るのも良いですが、1本次の列車で帰ることにして、駅の辺りを自転車で巡ってみるのも良さそうですね。次回はそうしましょうか。
名松線の復旧を祝う幟が立っていました[⑭]。今日はさすがに落ち着いていますが、復旧初日の昨日は、伊勢奥津駅でステージイベントが行われたり、特産品の販売や振る舞いが行われたりしていたようです。また、沿線住民が多数見送りに来たとか。名松線が、約6年半の眠りから覚めることができたことは、北海道新幹線の開業よりも、よほどめでたいことかもしれません。
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