矢神駅にやってきました[①]。しかし、特別な目的を持ってやってきたわけではなく、ただ単に時間潰しと新見行きの列車の出迎えをしに来ただけです。別に矢神以外の駅でも良かった(ひとつ前の市岡やひとつ先の野馳など)んですが、矢神だと、次の新見行きまでの待ち時間が、長すぎず短すぎずでちょうど良い感じだったものですから・・・。
布原と同様に、ホームは互いにずらして配置されています[②]。やはり列車交換の際に通票などの受け渡しをしていたからでしょうか。もちろん、今では通票の受け渡しなどしていませんが、芸備線の備後落合〜備中神代間(岡山支社管轄の範囲)で1日に1回しか起こらない列車交換は、ここで矢神で行われています。実は明日、その1日に1回しか見られない列車交換の目撃者となりますが、その様子は、明日ご覧に入れましょう。
矢神駅が無人化されたのは、1983年10月末のことでした。駅舎とホームの間に残る「フネ」が、ここに駅員が配置され、フネに入って改札を行っていた時代があったことを証言しています[③]。誰もおらず、静けさが漂う駅舎の中に、太陽の光を受けたフネが、印象的な影を残していました[④]。
駅舎は旧家の入り口を思わせる木造駅舎[⑤]で、筆を執って書いたかのような力強い書体による「矢 神 駅」と書かれた木板が、木造駅舎の味わいを引き立てます。有人駅から無人駅になった後、駅員が詰めていた事務所の部分が解体され、待合室の部分のみ、即ち今の矢神駅駅舎が残されたとのことです。現在の駅舎は「正方形に近い箱型」という印象を受けますが、昔はもう少し横方向にも広がりがあったんですね。
乗り場の案内をする琺瑯板に「東城広島方面」と書かれていました[⑧]。東城は1本の列車で行けますが、広島は1本の列車で行くことは不可能であり、少なくとも2回の乗り換え(備後落合・三次)が必要となります。「広島方面」と言われたところで、なんだかピンと来ないような気もしますが、よくよく考えてみれば、芸備線は、備中神代〜広島間を結ぶ路線です。芸備線とはどんな路線であったかということを今一度思い出させてくれます。
上りホームにのみ、待合室が設置されています[⑨]。そこにネジで打ち込まれていた「建物資産標」のプレートを見てみると、「待合所 1号 昭和3年10月」とありました[⑪]。しかし、矢神駅が開業したのは昭和5年、つまり1930年のことです。駅が昭和3年で待合室が昭和5年なら頷けますが、駅が開業する前から存在する待合室とはいったい何者なのか!?
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