美作滝尾にやってきました。この駅の駅舎は、戦前に建てられた古めかしい木造駅舎であり、その雰囲気が気に入られたのか、「男はつらいよ」の映画の撮影でも使用されました。そんなわけで、この駅は少々有名なようで、私や東津山から乗ってきた人のような者たち、あるいは「寅さんファン」が、戦前に建てられた木造駅舎のある情景、男はつらいよに登場した舞台を求めてやってきます。
いくら駅舎が古めかしかろうとも、例えば、ホームにあるベンチが青いプラスチック製のものであれば、その雰囲気は台無しになってしまいます。では、美作滝尾駅の実際のところはどうか。ホーム上には木板と鉄製のフレームを組み合わせたベンチが置かれ、その背後には、通常の駅名標の様式に則らない、前後の駅名を記した板が掲げられています[②]。
駅舎のある側は住宅地(と言えるほどかどうかは分からないが)に面していますが、その反対側には、のどかな田園風景が広がっています[④]。先ほどの木板を使用したベンチや駅名を記した板もそうですが、駅にある小物、そして駅を取り巻く環境が木造駅舎の佇まいと調和するにふさわしいものとなっていることで、美作滝尾駅の駅舎の味わいが引き出されると共に、全体の雰囲気がとても良いものに仕立てられています。
ホームに置かれていた謎の道具2つ[⑤]。右側にあるものはリヤカーであろうと想像がつきますが、左側にあるものは何なのでしょうか? 車輪が付いた四角形の箱、そして青い柱の先にあるレバーのようなもの。わざわざホームを掘って格納用の場所を確保しているくらいなので、重要度や使用頻度の高い道具であったのだろうと考えますが・・・。
早朝の木造駅舎、ホームへの出口から差し込む陽光[⑦] [⑧]。正直、私がここで言葉を色々と連ねるより、ただただこの写真をじっと見つめていただく方が、よほど美作滝尾駅の雰囲気を想像しやすいかもしれません。静寂の中で流れる時間、長く伸びゆく物の影。今は平成か、それとも昭和か。いや、平成であることはたしかなのだろう、でも本当に平成27年の8月であっただろうか・・・。
言うまでもなく、美作滝尾駅は無人駅ですが、かつては有人駅でした。「切符売場」や「携帯品一時預り所」の窓口があったり、様々な備品が置かれた事務室があったりしますが[⑨]、これらは例えば映画の撮影に合わせて整備したなどというものではなく、本当に有人駅時代のものがそのまま残り続けているようです。特に朽ちた様子もなく、全てが綺麗なままなその光景は、まさに「時が止まった」かのよう。
もっとも、1998年7月号のJR時刻表など、これはさすがに後年置いたものだろう(1998年あたりまで有人駅であり続けたとはさすがに思えない)というものもありますが、昭和30年代前半くらいに製造されたものではないかと思われる「ナショナル」の「真空管ラジオ」など[⑩] [⑪]、疑いの余地の挟みようがない「有人駅時代の名残」もありました。人の服装も変わった、車両も変わった、運営する会社も変わった。それでも変わらないもの。
小さな駅ですが、自転車を風雨から保護するための屋根がある・・・と言ったら、これはやや正確ではありません[⑬]。美作滝尾駅も、昔は貨物を取り扱っており、この屋根は、貨物の積み降ろし作業で使ったり、あるいはその降ろした荷物を保管するために使ったりしていたようです。また、この屋根はコンクリートで一段高くなったところにありますが、その「コンクリート」の正体とは、実は貨物ホームです。屋根共々残存しています。
改めて、美作滝尾駅の駅舎を眺めてみましょう[⑭]。戦火の時代を潜り抜け、戦後の復興と発展を全て知り、平成の円熟期の今を生きる。周りが変わっても変わらないことを貫き続けた美作滝尾駅の駅舎。戦前の20歳も、戦後の20歳も、平成初期の20歳も、そして平成27年の20歳も、美作滝尾駅にやってきてくぐり抜けた入り口、そして入った駅舎は、駅開業当時からの同じものです[⑮]。
駅開業当時からの木造駅舎を優れた状態で堅持し、「昭和初期の標準的な小規模駅舎」とは何かなどを今に伝える美作滝尾駅。そんな美作滝尾駅の価値は、行政からもきちんと評価されています。美作滝尾駅の駅舎は、2008年11月に登録有形文化財に登録され、「貴重な国民的財産」としての評価を与ることになりました[⑯]。とはいえ、登録されるだけでは何も起こりません。この駅舎を美しく保とうとする、人々の努力こそが肝要です。
なお、駅前や駅前の道については、特に何もありません。別に昭和初期の一軒家が今でもたくさんあるとかいうわけではないですからね・・・。
|