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 福塩線の電化区間と非電化区間を分ける駅、府中です。ホームから塩町方面を眺めてみると、空中を通る架線が、踏切を過ぎて少ししたところで途切れています[②]。しかし、かつては、ひとつ隣の下河辺まで電化されていたようです(電化→非電化とはいったい?それも戦後に)。

 福塩線の開業100周年を記念する作品が飾られていました[③]。福塩線の福山〜府中間が開業したのは、1914年7月21日のことであり、それのお祝いなのでしょう。しかし、そうすると、なぜ非電化区間を走るキハ120形を描いたのだろうか、という疑問が出てきてしまいます。まあ、細かい突っ込みはよしておきましょう・・・。なお、非電化区間は何度かに分けて延伸され、全通したのは1938年7月28日です。

 府中市の玄関口となるこの駅は、駅を中心として、表側にも裏側にも市街地が形成されています。表側(駅舎のある側)は、駅の近くにビジネスホテルが建っているなど[⑤]、特に発展しています。駅の近くにある商店街[⑥]には、「銀座通り」の名がつけられていました[⑦]。京都を思わせるような地方の町を「小京都」などと呼ぶことがあるように、ここも、「(東京の銀座のような)賑やかな繁華街」との意味合いを込めているのでしょう。

 中国銀行の店舗脇にある自販機[⑧]。広告などを挿入する部分に、「がんばれ!!岡山シーガルズ」とありました[⑨]。おや、ここは岡山ではなく広島のはずだが? 府中市はたしかに広島県東部にあり、岡山県に近いですが、他県のチームを応援しています宣言をしても良いものか?・・・と思いましたが、中国銀行は岡山県の銀行(中国新聞は広島県の新聞なのに)とのこと。それなら納得ですね。

 さて、福塩線を進んでいき、福山へ向かいましょう。10:24の福山行きの列車に乗車します[⑩]。電化区間となる福山方面は、毎時1〜2本の列車が運転されており、非電化区間となる塩町方面と比較すると、遥かに多い列車本数が確保されています。

 府中駅の構内に、元府中電車区であった敷地が残っています。電車区としては廃止されましたが、各種施設は残存しており、現在でも使用されています。ホームからも、115系が留置されているのが見えました[⑪]。これから乗車する福山行きの1つ前の列車も115系で運転されていました。

 福山行きとなる105系がやってきました[⑭]。105系ということは、全車全席ロングシートであることが保障されたということになります。残念。















 105系に乗車して福山を目指します[①]。これで福山に辿り着けば、福塩線の乗車が完了します。

 電化区間である府中〜福山間は、福山への通勤・通学路線として機能しており、列車本数が多いことはもちろんですが、駅の数も多いです。駅間距離は、備後本庄〜神辺間が4.3kmとなっているのを除けば、最長でも2.3kmとなっており、最短では900mと、1kmを切るような駅間距離の区間もあります。「ちぎっては投げ、ちぎっては投げ」ならぬ「ちぎっては走り、ちぎっては走り」か。

 10:30、新市[④]。10:38、戸手[⑤]。駅間距離の短さと停車駅の多さは、都市近郊の路線というよりは、まさに都市の路線という感じ。電化区間の平均駅間距離は約1.67kmにすぎません。参考までに示すと、京浜東北線・根岸線(大宮〜大船)間の平均駅間距離は約1.80kmであり、福塩線電化区間のそれがいかに短いか(大都市を貫く路線でもないのに)がお分かりいただけるかと思います。

 高架駅となっている福山に到着し、福塩線の全線乗車が完了しました[⑥]
















 福塩線の列車から降りた後は、すぐに5番線に移動し、11:09発の岡山行きの普通列車に乗車します[①]。ここまでずっと西へ向かってきたのに、いきなり東へ向かうこととなってしまいますが、これは、このまま福山から山陽本線を西進した場合、福山〜新倉敷間が未乗車の区間となって「穴」が開いてしまうためです。そんなところだけが残っても、後々困ってしまうだけですからね。

 山陽本線といえども、ずっと街の中を走るわけではありません[②]。田畑が広がるような区間ももちろんあります。しかし、複線電化の環境が用意され、妙な速度制限もなく、できる限り速い速度を出して突っ走る様は、まさに日本を代表する幹線にふさわしいものです。

 11:23、笠岡に到着[③]。福山〜新倉敷間の途中駅としては最も利用客数が多い駅で、快速サンライナー号が停車します。サンライナー号といえば、どうせ福山から山陽本線を東に進むなら、各駅に停まる普通列車より、サンライナー号に乗りたかったものですが、同列車の運転は朝夕に限定されており、日中は走りません。2009年3月の改正までは日中にも走っていました。

 「JRの人減らし合理化反対! 国労岡山」[④]。今でもなお活動を続けているようですが、国鉄の分割民営化から28年以上の歳月が経過した今、騒動の「終着点」は何になるのでしょうか。今更野党ということもないでしょうから、やっぱりお金か? まあ、私が生まれる以前の話に深く首を突っ込むつもりはありませんが、例えばJR北海道で相次いだ事故などを見ると、人手が足りていないのは本当なんだろうな・・・と。

 さくら544号が追い抜いていきました[⑤]。山陽新幹線の開業により、山陽本線の昼行特急は、倉敷以西においてはほぼ全滅(幡生〜門司間を通ったいそかぜ号などの例外あり)しましたが、寝台特急はまだまだ健在でした。しかし、最後まで残った寝台特急の富士・はやぶさ号も、2009年3月のダイヤ改正で廃止。今思えば、 あれに乗っておけば、山陽本線(本線部分)なんて簡単に攻略できたんですよね・・・。

 11:41、新倉敷に到着しました[⑥]。山陽本線の神戸〜新倉敷間は既に乗車しているので、そこに繋がりました。


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